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ゆず いきものがかり コブクロ GReeeeNあたりのヒット曲に生理的嫌悪感を抱く理由

2018年01月22日
ゆず いきものがかり コブクロ GReeeeNあたりのヒット曲に生理的嫌悪感を抱く理由

売れ線を好きになれない

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売れ線大嫌いって人は一定数いますよね。あの気持ちってなんで湧いてくるんでしょうか。一般にヒットしている曲が気に入らない、気に食わない。俺は、私はそちら側にはなびかない、安っぽいものには惹かれない。本物じゃない、もっと良いもの、センスのあるものは違うところにある。なんて思考、中学生のときは誰もが持ちますよね。

でも大人になってからもそんな思考が変わらず、社会に中々適応できずに上手く人間関係を作れない人もいるのです。いわゆる売れ線嫌いなこの思考にはちゃんと理由があるはず。生理的に無理、とか、生理的嫌悪感って言葉がよく何かと使われますが、そこにはちゃんとした理由があるはず。探せばあるはず。

「生理的に無理」。説明できないけど、なんか無理、感覚的に無理、ってことですが、ホントにそうか、と。理由もなしに嫌いになるわけがないんです。説明できないから「生理的に無理」なんて言葉を使っているに過ぎない。生理的に無理なんて言われた日には、理由がないので死ぬほど落ち込みます。でも理由はあるはず。言語化できないことなんてない。他人を生理的に無理で嫌うなんて一番傷つく言葉だぞ。

というわけで、なぜ売れ線ヒット曲が受けつかないのか、説明してみましょう。

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オリコン入りのヒット曲とは、

まずは例を出して悪いが、売れ線とはゆずとかいきものがかりとか、コブクロとか、GReeeeN、はたまた福山雅治さんとかが書く「ヒット曲」のことである。いわゆる王道のJ-POP、誰もがなんなく聴くことのできる歌謡曲のことだ。ヒット曲というからには、売れた曲ということになる、ではなぜヒット曲が嫌いになるのか。

ヒット曲というものは王道のコード進行で、王道の展開で描かれる。Aメロ、Bメロ、サビ、Cメロ、サビサビ、なんて流れであり、ストリングス多様、感動要素満載の一本のエンターテイメント映画ってわけだ。でもそれが受けつかない人も一定数いる。

なんででしょうか。それは一言で表すことができる。

「自分は他とは違う」という自己愛。

これだ。自己の確立、自己愛、自分を守りたい、自分は特別だ、なんて自分自身に対するアンデンティティにより生まれる、大衆が受け入れているものや文化、価値観とは真逆に行くという逆張りの精神である。

だけどその自己愛は社会に溶け込むという観点から見れば、少し歪んだ自己愛。

別にそのヒット曲自体が嫌いなわけではないんだ。ゆずやいきものがかりという存在自体が嫌いなわけではない。

その後ろにある背景、現象が嫌いということ。

みんなが好きになっている、みんなが受け入れているから、そこに疑問を抱く。なぜ疑問を抱くかと言えば、自己愛が強いからだ。なんでこれが良いんだ?自分は違うと思うという、自己の高い確立。まるで脳が動いていない働き蟻の大群でも見ているかのような感覚。なぜみんな思考停止してそれを受け入れて流されているんだ、というところに疑問を抱く。

自己愛が強いということは悪い言い方に捉えられるかもしれないが、自分自身をちゃんと確立できているとも言える。良い言い方をすれば、自分をしっかり持っているということ。理性がとても強いということ、本能的には動かないからそこに疑問を抱けるわけだ。

でも、それは決して上手く生きていくための能力ではない。大衆にはなびかない、そっち側にはいかないなんて、守られてるからこそ声を大にして言えることだ。欅坂46みたいに。何の後ろ盾もない一般人がいつまでも中二みたいなことを言っていれば社会は受け入れてはくれないし、何も満たされないまま苦しみ、痛み続けることになるだろう。

この精神はヒット曲が嫌いということだけではなく、様々な場面で言える。女の子らしくするとか、男に媚びを売るとか、そういうことに嫌悪感を抱くことと同じ。でもそうしないと、社会では上手く生きてはいけない。

自分と大衆文化

ゆず、いきものがかり、コブクロに限らず、大衆的なものが嫌いという思考は、大衆とは自分は違う、自分は特別だという感覚から来ている。かといって、自己肯定感は低い。自己愛が強いのにも関わらず、他者と接することを恐れ自分を表には出さない。

あんなのものの何が良いんだと言いながらも自分が好きなものを自信を持って言うこともできず、他者や社会との関わり合いもなくなり孤独に苛まれるかもしれない。そうはなりたくないだろう。自分だけの世界で遊ぶことはできるが、それをいつかは表に出さなければ孤独と戦うことになるだろう。

たぶん誰もがどこかで「これはおかしい」「これの何が良いんだ」という疑問は抱くが、それを抱き続けていたところで上手く生きていくことは出来ないため、自然と社会に適応していく。ずっとそんな思考をお持ちの方は、残念ながらこの社会の歯車には噛み合わずに生きていくことになる。例えば「普通の幸せ」は手に入れることができない。簡単にいえば、どこかのタイミングでパリピになれ、ウェーイ系になれってことだ。素直になれってことだ。

ゆずが嫌いなわけじゃない。例えば「栄光の架け橋」がゆずのアルバム曲で、いやカップリング曲で全く知名度がなかったとしたら…その曲は隠れた名曲扱いされただろう。

もしも星野源が表舞台に出ることなく、サブカルチャーの中で活動し続けたとしたら…同じ人間が書いた曲なのに、支持していた人間は違うだろう。

SEKAI NO OWARIが今でも地下ライブハウスで地道に活動をしていたら…

メジャーに行くと変わってしまった、なんかイヤだなという感覚は、本人が変わったわけじゃない。それを取り巻く現象がイヤなだけだ。

そして大衆文化とは逆を行く精神性、現象を「ロック」と言う。大衆とは真逆の精神を持って、自分の信じたものを貫いて表現していくということだ。それをロックと言う。そのロックを表現している人は、自己肯定感をも持って挑戦している。ただ大衆文化に対して文句を言うようなことではなく、自分自身を表現しているからカッコいい。その精神を持ちながらも、貫き通して表現し続けている。それはものすごいこと。

でも歳を取れば取るほど、その精神は持つことは苦しくなってくる。持てたとしても、20代までであり、それ以降は落ち着いてしまうだろう。それが人間だから。それでも大衆にはなびかず、続けている人達はとってもカッコいいだろう、惹かれるだろう。だから彼らのような存在は本来、表舞台に出てきてはいけない。なぜならそこに立っている人達とは全く精神性が違うからだ。もし出てきたら違和感しかないし、引かれるだろう。

それにゆずやいきものがかりだって、最初からメジャーな存在だったわけじゃない。彼らが路上ライブをしていた頃、彼らはロックだった。そもそも路上ライブをしている時点で、彼らも一般社会には溶け込んでいないロックという精神性を持っていたことになる。ただただレールの上を歩んだ人生を送っていなかったということだ。だから彼らも元は同じ。多くの人間に知られることにより、それが=社会に認知され社会に溶け込んでいくことになったということ。メジャーになったとしても、彼らの中にはその精神は未だに眠っている、いや有るだろう。だから地道な活動を経て売れた人達は実はもの凄い存在なわけで…。

というわけで…

その精神性を持つのはカッコいいですが、ずっと持ち続けているのは辛いですし、素直になって見てはどうでしょうか。ヒット曲だって捉え方を変えれば、良い曲に見える、聴こえるかもしれない。

そしてただ「嫌い」と言うより、なぜ嫌いなのか、なぜ生理的に受けつかないのか、その理由を探してみるのも面白いはずです。その理由がわかったとき、もしかしたらその「嫌い」が、少し受け入れられるものに変わるかもしれない。

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